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古川聖書バプテスト教会
信仰告白

1聖書 

 旧新約66巻からなる聖書は、唯一の記録された啓示であり(1)、全て神の遂語十全霊感によって記された(2)、全く誤りのない(3)、神のことばです(4)。それゆえ聖書は、信仰と生活及び教会間の交わりにおいて絶対的権威をもつ規範です(5)。

 

   (1)黙示録22:18-19、申命記4:2

   (2)Ⅱテモテ3:16

   (3)ヨハネ17:17、Ⅱサムエル7:28

   (4)Ⅱペテロ1:21

   (5)ヨハネ12:48、詩篇119:105

 

(解説)

 神は木や石とは違って、御自身の意志をお持ちで、それを私たち人間にいろいろな方法で伝えてくださいました。このように神が御自身の存在や意志を伝達されることを啓示と言います。堕落した私たち人間は、神からの啓示なしには、神御自身と、神の私たちのための救いのご計画について正しく理解することはできません。

聖書は約40人の記者による単なる宗教的文書なのではありません。神の救いのみこころの啓示の文書化に当たって、神はあらゆる誤りから守るために、記者たち及びその文書を聖霊によって特別に導かれました。この導きを霊感といいます。この霊感は、書かれている思想だけではなく、一つ一つの言語に及んでおり(遂語霊感)、聖書の全体及びあらゆる範囲に及んでいます(十全霊感)。ですから、聖書の中の歴史や科学にふれている部分には誤りがあるという考えは間違っています。

 御自身のみこころの啓示の文書化は、人間の側の必要によって促されたとはいえ、その背後に、神の先導的な摂理が働いています。聖書は単なる教会の文書・経典なのではなく、神が聖書において私たちに語っておられるのであり、まさしく神のことばそのものです。神のことばに権威があるのは、神に権威があるからです。私たちは、信仰に関する一切の事柄を、この聖書によって判断し、ここに教えられ勧められていることに従って歩むべきです。個人生活であれ教会間の交わりであれ、いつも聖書の光に照らされて進められるべきです。
 

 

 

2 神

 唯一の(1)生ける真の神は(2)聖であり(3)、義であり(4)、また愛である(5)、全知全能の6人格的実在者であって、無限(7)・永遠(8)・不変(9)の霊であられます(10)。このお方は、本質において同一、能力と栄光において同等の父、子、聖霊なる三位の神であり(11)、万物の創造者(12)、贖い主(13)、支配者であられます(14)。それゆえ私たちは、主なる神のみを礼拝し、最高の愛と従順をもってこのお方に仕えるべきです(15)。

 

   (1)申命記6:4、Ⅰコリント8:6

   (2)エレミヤ書10:10、Ⅰテサロニケ1:9

   (3)イザヤ書6:3、黙示録15:4

   (4)申命記32:4、ローマ3:26

   (5)出エジプト34:6、Ⅰヨハネ4:8

   (6)ヘブル4:13、マタイ19:26

   (7)Ⅰ列王8:27

   (8)イザヤ40:7

   (9)ヤコブ1:17

   (10)ヨハネ4:24

   (11)マタイ28:19、Ⅱコリント13:13

   (12)創世記1:1

   (13)黙示録5:9

   (14)黙示録4:8

   (15)申命記6:13、ローマ12:11

 

(解説)

 聖書は一貫して真の神は唯一であると教えています。絶対なるものは二つとはないからです。また真の神は生きて働かれる神であり、祈りに答えてくださる生ける神です。たといこの世にどんなに多くの神々がとなえられたとしても、聖書が示すこの唯一の生ける真の神以外の神は存在せず、他はすべて人間が作り出した偽りの神々です。

 このような唯一の生ける真の神は、その本質において「霊」であるといわれています。神が霊であるとは、まず神が何か一つの法則とか原理とか力といったようなものではなく、人格性を持ったお方であることを意味しています。神は自由な意志を持って行動される人格的な存在であり、聖なる、義なる、また愛なるお方です。神は全てのことを知っておられ(全知)、御自身のご性格に反すること以外の全てにおいて、どんなことでもできないことはありません(全能)。さらに神が霊であるとは、神は人間や物質とは違って時間や空間によって制約されない、絶対的超自然的存在であり(無限・永遠・不変)、生まれながらの人間の五感や理性によっては知ることのできないお方であることを意味しています。

 この唯一の神は、同時に父・子・聖霊という三つの人格(位格)を持っておられます。これを「三位一体」といいます。聖書の中にこの言葉は出てきませんが、真の神がそのようなお方であることは、聖書の多くの箇所で示されています。父と子と聖霊は、その神としての本質において全く同一であり、その力と栄光において何ら異なるところがありません。ただ、それぞれの人格的特質と働きによって、父・子・聖霊という秩序を保っておられます。このように唯一の神の中に三つの人格があるということは、人間の理性では受け入れられない矛盾のように思いますが、神の三位一体性という教えは、そのような人間の理性をこえた事柄であり、ただ神が聖書によって御自身をそのようなお方として啓示してくださった真理です。

 このような真の神が、そのみこころに従って、御自身の栄光のために、世界とその中にある一切のものを創造されました(創造者)。神はまた、御自身の聖い目的のために、聖く賢い摂理の働きによって全被造物を保持し、統御しておられます(支配者)。世界の歴史も個人の生涯も、全ては神の主権的なご支配の下にあって導かれているのです。さらにこの神は、御自身に反逆する罪人を豊かなあわれみをもって救ってくださる、贖い主です。

 神がこのようなお方であることを知れば、私たちがこの主なる神のみを礼拝し、最高の愛と従順をもってこのお方にお仕えするのは当然のことです。

 

 

3 人間の堕落

 最初の人間アダムは神のかたちに創造され(1)、完全で罪のない者でありましたが(2)、サタンの誘惑により自ら神の命令にそむいて罪を犯し(3)、堕落して死に服する者となりました(4)。それゆえ全人類は生まれながらの罪人であり(5)、本性的に全く堕落しているため、その腐敗した状態から自分を救うことはできず(6)、永遠の滅亡の刑罰に値するものです(7)。

 

   (1)創世記1:26-27

   (2)創世記1:31

   (3)創世記3:1-24

   (4)ローマ5:12

   (5)詩篇14:1-3、ローマ3:23

   (6)エレミヤ2:22、エペソ2:1-3

   (7)ローマ6:23

 

(解説)

 神は御自身の栄光のために土のちりをもって人をかたちづくり、神のいのちの息をその鼻に吹き入れることによって、人は生きるものとなりました。人は神の似像を持つ者として創造されたのですが、それは外形が似ているというのではなく、聖と義と知識において神にかたどって造られたという意味です。つまり、理性的であり、道徳的であり、自由意志を行使し、神と交わりを持つことのできる霊的人格的存在として造られたということです。

 最初の人間は、罪のない者であったわけですが、それは罪を全く犯すことができない者として造られたのではなく、罪を犯すことも犯さないこともできる状態にあったのです。神は人間が自らの自由意志によって神に全く服従するかどうかをためすために善悪を知る木から取って食べるなという命令を出しました。この命令を守るならば人間は永遠に生きるはずでした。しかし人間は神に敵するサタンの誘惑によって故意にこの命令に違反して善悪を知る木から取って食べました。その結果、罪に堕落し、神との交わりを失い、死が全ての人に及んだのです。

 人間は、アダムを全人類の代表として結びついているため、彼から出た全ての子孫は罪を転嫁され、腐敗かつ堕落した性質が伝えられたのです。それゆえ、人間は生まれながら罪を持っており、怒りの子であり、罪の奴隷です。神は罪を犯す人間に対して肉体的・霊的・永遠的死を伴う刑罰を定められました。

 人間は生まれながら罪人であるとはいえ、一般的善を行うことができないのではありませんが、神の満足する霊的善に対しては全く向いておらず、無能であり、敵対し、全ての悪に完全に傾いており、現に悪を行い続けているのです。ですから、生まれながらの人間は主イエス・キリストの一方的恵みによって新生し、罪から救われることなくして神を愛し、あるいは救いを受けるに値するようなことを何一つ行うことができないのです。

 

4 イエス・キリスト

 永遠のはじめより神の子であるイエス・キリストは(1)、聖霊によってみごもった処女マリヤから生まれ(2)、罪のない生涯を送られた(3)真の神であり(4)、また同時に真の人であられます(5)。イエス・キリストは唯一の救い主であり(6)、贖いのみわざを成し遂げるために、私たちの罪の身代わりとして(7)十字架の上で血を流し、死んで葬られた後、三日目に栄光のからだによみがえり(8)、昇天して父なる神の右に座し(9)、今はそこで大祭司として私たちのためにとりなしていてくださいますが(10)、世の終わりに再臨されます(11)。

 

   (1)ヨハネ1:1

   (2)マタイ1:18-25

   (3)ヨハネ8:46、Ⅰペテロ2:22

   (4)Ⅰヨハネ5:20、ローマ9:5

   (5)ローマ1:3、ヘブル2:14-17

   (6)使徒4:12、Ⅰテモテ2:5

   (7)Ⅰペテロ2:24、イザヤ53:5-6

   (8)Ⅰコリント15:3-4、ヨハネ20:19-29

   (9)ヘブル1:3

   (10)ヘブル7:24-25

   (11)Ⅰテサロニケ4:13-17

 

(解説)

 イエス・キリストは、三位一体の神の第二位格として「子なる神」と呼ばれています。キリストは万物の創造される以前より永遠に存在される真の神であり、人となって世に来られるまでは、三位一体の親しい交わりの中で、神としての栄光に輝いておられました。

 しかし、私たち罪人の救いのために自らその栄光の座を捨てて人となり、ベツレヘムにおいて処女マリヤよりお生まれになりました。キリストは、罪を除いては、私たちと全く同じ人間となり、私たちの味わう悲しみ・痛み・喜びなど全ての経験をされました。キリストは真の神であり、同時に真の人であられますが、キリストにおいて神性と人性とは、互いに混同されることなく(神でも人でもない神人のような存在ではなく)、かつ分離されることなく(半神半人のような存在ではなく)、結び合わされ、統一されています。

 キリストは、私たちと父なる神とを結ぶ唯一の仲介者であり、この方以外には誰によっても救いはありません。キリストは、ローマ総督ピラトのもとで十字架につけられましたが、これは私たちの全ての罪の身代わりの刑罰としての死でありました。そして死んで後、葬られ、三日目に復活されましたが、この復活によりキリストは公に神の子として証されました。これは、決して幻想とか霊的な復活ということではなく、弟子たちが手で触れることのできた栄光のからだに復活したということです。

 キリストは復活の後、40日間現れて弟子たちを教え、その後オリーブ山から昇天されて、現在は父なる神の右に座しておられ、私たちのために大祭司としてとりなしていてくださいます。そして終わりの日に、輝かしい栄光をもって再びこの世においでになり、全てを正しく裁かれます。
 

 

 

5 救い

 主イエス・キリストの贖い(1)によってもたらされた救いは、私たちが罪を赦されて(2)義と認められ(3)神の子とされ(4)滅びよりいのち(5)へと移される神の恵みの賜物です(6)。この救いを得るためには、聖霊によって新しく生まれ(7)、罪を深く悔い改めて(8)イエス・キリストを自分の救い主として心から信じなければなりません(9)。この救いは、どんな行いにもよらず(10)、ただ神の恵みによるものであり(11)、この救い以外に私たちの救われる道はありません(12)。この救いにあずかった者は、永遠に保たれます(13)。

   (1)ローマ3:24

   (2)使徒26:18、Ⅰヨハネ2:12

   (3)ローマ5:18、ガラテヤ2:16

   (4)ヨハネ1:12、ローマ8:14-17

   (5)ヨハネ5:24

   (6)エペソ2:8

   (7)ヨハネ3:5

   (8)使徒20:21

   (9)ローマ10:9

   (10)エペソ2:9

   (11)エペソ2:5

   (12)使徒4:12、ヨハネ14:6

   (13)ユダ24、ピリピ1:6、ローマ8:28-30

 

(解説)

 主イエス・キリストは、全く罪のない、聖い神の子でありましたが、私たちの全ての罪を身代わりとして負われ、十字架の上でその刑罰を受けてくださり、三日目によみがえってくださいました。ですから、私たちは主イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われます。そしてこの救いは、一方的な神の恵みによる賜物です。すなわち、この救いは人間が作り出すことのできるものではなく、信仰によって神から受け取るべきものです。

 人間は、アダムの堕落以来、全く罪に支配されているため、自らこの救いに向かうだけの霊的善さえも持っていません。ですから、この救いを得るためには、まず聖霊によって新生させられる必要があります。そして、罪を深く悔い改め、イエス・キリストを自分の救い主として心から信じなければなりません。

 神は真実なお方ですから、この救いにあずかったものは、決して滅びることがなく、救いの完成に至るまで永遠に保たれます。これは、クリスチャンが怠惰な信仰生活を送っても良いということではなく、かえって自分の救いを確信することによって、いよいよ主のわざに熱心かつ忠実に励み、最後まで耐え忍んで、キリストへの愛を全うすべきであるということです。

 

 

 

6 聖化と栄化

 神であられる聖霊は(1)、罪と義と裁きについて世の人の目を開き(2)、救い主イエス・キリストへと招いて新生の体験を与え、信仰による救いへと導き入れてくださいます(3)。聖霊はさらに私たちの心の内に住み(4)、私たちが教会を通して神に仕えるために聖潔と奉仕の生活を送る賜物を与えて(5)、キリストに似たものとしてくださいます(6)。この聖化は、私たちの全生涯を貫いて継続するみわざであり、神のことばへの従順によって達成されていきます(7)。私たちは、救いと聖化の保障として、最後の贖いの日のために約束の聖霊をもって証印を押されています(8)。

 

   (1)使徒5:3-4

   (2)ヨハネ16:8

   (3)テトス3:5

   (4)ローマ8:11

   (5)Ⅰコリント12:11

   (6)Ⅱコリント3:18

   (7)ピリピ2:12-14

   (8)エペソ1:13

 

(解説)

 聖霊は、三位一体の神の第三位格として「聖霊なる神」と呼ばれています。それゆえ聖霊は、単なる力や影響力、あるいは神のご目的を実現する手段としての力ではなく、固有の働きを持つ完全なる人格的存在であられます。

 この神であられる聖霊は、罪人に対して働き、彼が有罪であること、イエス・キリストが父によって受け入れられた義なるお方であること、また神が善と悪を正しく裁かれることを明らかに示されます。こうして聖霊は、私たちにイエス・キリストを証し、生まれながらに罪によって死んでいた心を新しくし、生かして救いに導き、神のいのちと性質にあずかる者としてくださいます。

聖霊は、信仰によってイエス・キリストを自分の救い主と信じ受け入れる時に、罪の赦しとともに賜物として私たちに与えられ、心の内に住まわれます。それゆえ聖霊は、回心後の特殊な霊的体験や按手などによって与えられるものではありません。また聖霊は、キリストのからだである教会の中に働き、信じる者一人一人が互いに奉仕をし、教会を建て上げるのに必要なさまざまな賜物を、無償で与えてくださいます。

 内住の聖霊は、キリストの御霊とも呼ばれ、私たちの全生涯に渡って働かれ、聖化のみわざを成し遂げられます。これは、私たちがみことばに従い、自分自身を献げることを通して、罪に勝利して聖く歩み、御霊の実を結び、ついにはキリストに似た者とされるということです。

 私たちは、再びキリストにお会いする日に、全き救いと栄化にあずかる確かな希望を持っています。この望みの保障こそ、今私たちの心の内に住んでおられる、ペンテコステの日に下られた約束の聖霊であります。

 

 

7 教会

 キリストのからだである教会は(1)、全てのまことの新生者によって構成されます(2)。この見えない普遍的教会に属する各個の教会は、特定の時代と地域に存在し、バプテスマ(浸礼)を受けた信者の、契約によって組織された共同体です(3)。この地域教会は、政治形態を自治独立の会衆制とし(4)、役職として牧師・執事を定め(5)、世の終わりまで神を礼拝し、礼典を守り、福音を宣教することを使命とします(6)。私たちは、この教会の交わりに自ら加わり、その使命を遂行する責任を担うべきです(7)。

   (1)エペソ1:23

   (2)Ⅰコリント12:12-13

   (3)マタイ28:19-20

   (4)使徒6:1-6、マタイ18:17

   (5)ピリピ1:1

   (6)マタイ28:19-20

   (7)Ⅰコリント12:27

 

(解説)

 キリストのからだである普遍的教会は、あらゆる時代のあらゆる民族の中から選ばれた信者の全体を指しています。これは見えない教会とも呼ばれます。私たちは、ある時代のある地域に集められた可視的に組織された各個の教会の一員であるわけですが、その教会はキリストのからだである普遍的教会の一部分でもあるわけです。

 各個教会は、聖霊による新生の体験をした信者のみによって構成されるべきです。とはいえ、地上の教会は、偽信者などが混入したり、過誤に陥る危険性やサタンの集会となるほどに堕落する可能性を持っています。ですから私たちは、真実の悔い改めと信仰によって示される新生体験を、できる限り見極めてからバプテスマを施し、教会員として受け入れるべきです。なぜならバプテストは、真の信者だけで構成される霊的教会(霊的共同体)を信じるからです。

 教会政治形態は、全ての信者は等しく祭司であるという万人祭司の原理から、会衆制をとります。会員の一人一人は、平等の資格で教会政治に参与し、賜物を用いて教会に奉仕するのです。こうした理由からバプテストは、教会会議を重視します。各地域の教会は自治独立ですから、他教会から干渉されることや、他教会に干渉することはありませんが、宣教のわざにおいては、同信の教会と交わりを持ち、連合方式をもって協力し合うべきです。この場合も、各個教会の自主的判断(総会の決議)によって、その交わりに入るわけです。

 新約聖書は、牧師(監督・長老)と執事という二種類の役職を教会に与えています。牧師と執事は、教会に立てられた霊的指導者であるので、私たちはその指導に従うべきです。聖書はこれらの役職に就く者に対して、高い霊的レベルを要求しており、その資格はⅠテモテ3:1-13、テトス1:5-9などに記されています。

 このように具体的に目に見える形で組織された教会によって、世界宣教のわざが世の終わりに至るまで推し進められていきます。ですから、私たちは地域教会の責任ある会員となって、教会の使命を遂行すべきです。

 

 

 

8 礼典

 キリスト御自身によって定められた礼典は、バプテスマ(浸礼)(1)と主の晩餐(2)のみであり、主が再び来られるまで、地域教会において行われるべき(3)象徴的儀式です。バプテスマ(浸礼)は、公に信仰を告白し、教会の交わりに加わる意志を表明した信者に、父・子・聖霊の御名において授けられます(4)。これは、信者がキリストの死と葬りと復活にあずかり、罪に死んで新しい生命にあって生きる者とされていることを表します(5)。それゆえ私たちは幼児洗礼を否定し、全身を水に沈める浸礼の形式を守ります。主の晩餐は、キリストの十字架のからだと血の象徴であるパンとぶどう液にあずかることにより、キリストの贖いの死を記念すると共に、キリストの再臨を指し示し(6)、教会の交わりと一致を固くさせるものです(7)。それゆえバプテスマ(浸礼)を受けた信者は、自分を吟味してこれにあずかるべきです(8)。

   (1)マタイ28:19

   (2)Ⅰコリント11:23-26

   (3)使徒2:37-42、20:7

   (4)マタイ28:19

   (5)ローマ6:3-11、コロサイ2:12、使徒8:36-39

   (6)マルコ14:22-24

   (7)Ⅰコリント10:16-17

   (8)Ⅰコリント11:27-29

 

(解説)

 私たちが守り行うべき礼典は、ローマ・カトリック教会などで主張されているような神秘的な効力を持つ秘蹟(サクラメント)ではなく、キリストの福音を、目に見える形で象徴的に現わしたものです。キリスト御自身が制定された礼典は、バプテスマと主の晩餐の二つだけであり、さらにこれらの礼典は個人的に執行されるべきものではなく、地域教会において執行されるべき礼典です。

バプテスマは、福音の中心的メッセージであるキリストの死と復活を、目に見える形で表わすものです。それは私たちの古い人がキリストと共に十字架に死に、新しいキリストの復活の生命によって歩む者とされたこと、すなわち私たちがキリストと一体とされているという信仰を、神と人の前に告白するものです。聖書の原則によれば、バプテスマは各自の信仰の告白にのみ基づいて授けられるべきものですから、まだ自分で信仰を告白できない幼児にバプテスマを授けること(幼児洗礼)は、否定されるべきです。また、バプテスマが福音の最も中心的なメッセージを表わしている以上、その形式もキリストの死と復活を象徴する浸礼の形でなされるべきです。事実、新約聖書におけるバプテスマは、一つの例外もなく、浸礼でした。

 主の晩餐もバプテスマと同様に、福音を目に見える形で表わしたものです。主イエスは十字架に渡される夜、パンと杯を祝福され、ご自分の十字架が全ての人のための罪の贖いであることを約束されました。このパンと杯は、あくまでもキリストのからだと血の象徴であって、それらが現実にキリストのからだや血に変化したり、何らかの神秘的な力を帯びたりするものではありません。主の晩餐にあずかる者は、信仰の告白に基づくバプテスマを受けて、忠実な教会生活を送っている者であり、よく自分を吟味して、キリストの贖いの恵みが自分にも十分であるという信仰をもってこれにあずかるべきです。

 

 

 

9 教会と国家の分離

 国家の政治機構は、全世界の主なる神が御自身の栄光と人類社会の福祉のために定められたものであり、もっぱらこの世に属する事柄に責任を負っています(1)。教会は魂の救い、人類の霊的福祉増進をその主な使命としており(2)、教会と国家の政治機構とは互いに独立し分離しているべきです(3)。私たちは為政者のために祈り(4)、彼らに誠実に従うべきですが(5)、唯一の良心の主であられる神にのみ責任を負う私たちは、神のみこころに反するいかなる国家権力の強制からも自由です(6)。それゆえ、私たちは政教分離と信教の自由を主張します。

 

(1)ローマ13:1-7、Ⅰテモテ2:1-2

(2)マタイ28:16-20、Ⅱコリント5:18-20

(3)ルカ20:19-26

(4)Ⅰテモテ2:1、エレミヤ29:7

(5)ローマ13:1、テトス3:1、Ⅰペテロ2:13-14

(6)マタイ10:28、使徒5:27-32、ダニエル6:6-10

 

(解説)

 私たちの主なる神は、人類の歴史を導き、全世界の全ての国々を御手の内に支配しておられるお方です。そして国家という制度も、神の深いみこころによって定められたものであり、私たちが平安で静かな一生を過ごすためのものです。それゆえ、私たちは国家に対して果たすべき義務を果たし、為政者のために、同法の救いのためにとりなしの祈りをささげるべきです。

 これに対して教会は、本質的に霊的共同体であり、国家とはその使命を異にするものです。もちろん、私たちは社会生活を送る者として、国家や地域社会との関わりを無視することはできませんが、国家と教会とはその本質において異なっており、それぞれ別の使命を神から与えられていることを、しっかりと認識していなければなりません。それゆえ教会と国家の政治機構とは互いに独立し分離しているべきです。そして、私たちは最終的にはただ神にのみ責任を負う者ですから、たとえ国家が神のみこころに反する事柄を強要したとしても、神に従うべきです。私たちは、神の前における良心の自由、信教の自由は、いかなる国家権力の強制からも守られ、保障されるべきであることを主張します。

 

 

10 終末

 私たちの救い主であり、終末の主であられるキリストは、大能と栄光の中に見えるかたちで、からだをもって再臨されます(1)。この再臨によってキリストは、御自身の花嫁である教会を迎え入れ(2)、信じる者に新しい霊のからだを与えて(3)救いを完成されますが、信じない者には、永遠の滅亡の刑罰をもって報復されます(4)。主はまた千年王国を設立して後(5)、全てのものを新たにして御国を父なる神にお渡しになります(6)。それゆえ主イエス・キリストは、私たちの希望であり(7)、日々の信仰のわざを失望に終わらせることのないお方です(8)。

 

   (1)マルコ13:26、使徒1:11

   (2)Ⅰテサロニケ4:13-17

​   (3)Ⅰコリント15:35-58

   (4)Ⅱテサロニケ1:7-9

   (5)黙示録20:1-6

   (6)Ⅰコリント15:24

   (7)テトス2:13

   (8)Ⅰコリント15:58、ローマ15:13

 

(解説)

 主イエス・キリストは、昇天の時にみ使いを通して、再臨について約束なさいました。すなわち、キリストは肉体(栄光のからだ)をもって、見えるかたちで、人々がそれを認めることができる状態でおいでになります。このことは突然のことであり、栄光と勝利の再臨です。

 イエス・キリストはまず、御自身の花嫁である教会を迎え入れるために再臨されます。この時、すでに信じて死んだ者は、パラダイスで主とともにおりますが、キリストの栄光のからだに似たものとされます。また、地上に生き残っている者は、空中に引き上げられ、主とお会いします。このように、信じる者は最後の審判において、完全に、永遠に全ての罪と悲惨から解放され、栄光の交わりのうちに決定的に定められ、全き救いを完成されます。しかし、信じない者は、全て明白な証拠によって裁かれ、刑罰を与えられます。すなわち、キリストの栄光に輝く交わりから捨てられ、永遠に悪魔とその使いたちとともに、からだと魂の両方の言い尽くしえない刑罰に定められ、滅ぼされます。

 キリストは、聖徒たちを従えて地上に再臨されて後、千年王国を設立されます。この王国は、信じる者の心を支配する霊的な王国ではなく、キリスト御自身が王として義、喜び、平和のうちに支配なさる地上の王国であります。信じる者は、この御国を受け継ぎ、キリストとともに王として千年の間治めます。千年の終わりに、主キリストは、全ての支配、権威、権力、また最後の敵である死をも滅ぼして、御国を父なる神に渡されます。

 これに引き続いて、神は新しい天と新しい地を創造されます。この新天新地は、永遠の御国であり、正義の住む所であります。神は信じて贖われた者に、この永遠の御国を受け継がせ、彼らの神となり、彼らとともに永遠に住まわれます。これこそ、私たちの救いの最終的な完成です。

このように主イエス・キリストは、私たちの希望、喜び、平和であり、私たちの信仰のわざを失望に終わらせることなく、永遠の祝福をもって報いてくださるお方です。

 

 

 

付録  

 

[1] バプテスト教会とは

 

 キリスト教にはいろいろな教派があります。大きく分けると,カトリック教会とギリシャ正教会とプロテスタント諸教派です。プロテスタント諸教派は16世紀の宗教改革を契機として,カトリック教会から分離し,発展したもので,改革派,長老派,ルーテル派,メソジスト,ホーリネス,ペンテコステ,その他の教派に分かれており,バプテストはその一つです。

 

 バプテスト教会は,17世紀の英国における宗教改革運動(清教徒革命)の中から生れました。英国国教会から分離したある人びと(トマス・ヘルウィズ他)が1612年頃,ロンドンにおいて,最初のバプテスト教会を設立したのが始まりだと言われます。「バプテスト」という呼び名は,その頃,幼児洗礼主義者たちによってつけられたあだ名であったと言われます。英国におけるこのバプテスト教会の流れは,ピューリタンのアメリカ大陸への移住と共にアメリカに渡り,最初のバプテスト教会の設立(1639年,ロードアイランド)となり,やがてアメリカ全土へと広がっていきました。そして今日,バプテストはアメリカ最大のグループとなっています。

 

 日本におけるバプテスト教会の流れは,このアメリカのバプテストの流れをくむもので,1860年に来日したジョナサン・ゴーブルや,1873年に来日したネイサン・ブラウンの伝道によって始められました。

 

 私たちの保守バプテスト教会は,戦後アメリカの保守バプテスト宣教団の働きによって生み出されたものですが(1947年),アメリカの保守バプテスト教会のグループは,1900年代に起こった,聖書の権威をめぐる自由派と保守派の間の激しい神学論争の中で,1943年にそれまで属していた北部バプテスト同盟(その流れを汲むのが日本バプテスト同盟)から離脱して,保守バプテスト連合を形成したのが始まりです。そして,聖書は誤りのない神のみことばであるという信仰に堅く立ち,国内,国外に熱心に伝道を進めてきました。私たちの教会は,このような歴史の流れを汲むバプテスト教会です。

 

 

 では,バプテスト教会が歴史の中で大切に守り続けてきた,その特質は何でしょうか。それは,次に挙げる10項目にまとめることができます。

 

 

[2] バプテスト教会の特質

1.信仰と生活の唯一の規範としての聖書

2.神の主権と魂の自由

3.新生した教会員と信者のバプテスマ(浸礼)

4.信者の万人祭司性

5.教会における自治独立の会衆政治

6.教会の二種の役職(牧師と執事)

7.象徴的礼典としての「バプテスマ」と「主の晩餐」

8.教会と国家の分離および信教の自由

9.世界宣教の使命と熱心

10.近代自由主義からの分離

 

 

1.信仰と生活の唯一の規範としての聖書 

 聖書は,霊感という聖霊の特別な働きと守りのうちに書かれたものです。

 それゆえ聖書には,私たちの信仰に基づく生活の全ての領域に渡って,必要かつ十分な教えがあります。私たちは信仰と生活の規範として,聖書以外のどんな人間的な著作や信仰告白なども,聖書と同等の権威を持つものとしてはこれを認めません。また私たちの,信仰と生活に関わる一切の事柄は,絶えず聖書の光によって検討され,改善されるべきです。

 歴史的に見てもバプテストは,聖書以外の例えば心情などが,実質的に聖書以上に重んじられたり,宗教的迫害の道具にされたりすることに対し,明確に反対の態度を貫いてきました。

 こういうわけでバプテストは,聖書を信仰と生活の唯一の規範としています。

 

2.神の主権と魂の自由

 私たちの信じる神は,天地万物の創造主であり,また私たちの贖い主であられます。それゆえ神が私たち人間に対して,絶対的な主権を持っておられることは当然のことです。神は確かに人間に自由意志を与えられましたが,パロが頑なにされたのも御心によるといわれているように,私たちの自由意志も含めて,全ては絶対的主権者である神の御手の中にあります。

 また私たちの魂は,それぞれが神によって創造され,生かされている魂です。それゆえ各個人の魂は,最終的には,ただ神に対してのみ責任があります。バプテストは,この魂の自由は,いかなる代価を払っても守られるべきであることを,歴史的に様々な戦いを通して主張してきました。

 

 3.新生した教会員と信者のバプテスマ(浸礼)

 キリスト教がローマ帝国の国教となって以来,国家と教会の癒着が,ヨーロッパのキリスト教社会にとって大きな問題となりました。バプテストは,聖書で教えられている教会とは,キリストの十字架の福音を信じて新生した者によってのみ構成されるべきこと,そして教会は福音を信じて新生し,その信仰の告白をした者にのみバプテスマ(全身を水に浸す「浸礼」-洗礼という語は適当ではない)を授けるべきであることを主張してきました。

 もちろん地上の教会は決して完全ではなく,あらゆる誤りや弱さが混入する危険性は常にあります。

 しかし私たちは,主に祈り求めながら,真実に聖書に忠実な教会を目指して,あらゆる努力を続けていく必要があります。

 バプテストの特質として,バプテスマ(浸礼)という型を守ること以上に,本質的に重要なのはこの教会観です。

 

4.信者の万人祭司性

 教会はキリストにあるひとつのからだであって,そのからだの全肢体である私たち信者一人一人は,その特別な賜物あるいは職務が何であれ,主に対して同等の関係にあります。教会は特権的な祭司階級を持たず,全ての信者はキリストの贖いによって,神に対して祭司です。

 従って私たちは,人間的な仲介者なしに直接神に祈り,とりなし,また仕えることができる者とされています。

 

5.教会における自治独立の会衆政治

 地域教会は自治独立の霊的共同体であり,中央集権化された権威や,上級組織に委任された権威などによって治められることは,決してありえません。また教会の政治は,全会衆の責任においてなされる会衆政治です。教会のかしらであるキリストは,最終的権威を地域教会にお与えになりました。従ってバプテスト教会の運営は,全教会員の総意に基づいてなされるべきです。

 

6.教会の二種の役職(牧師と執事)

 教会には聖霊の働きにより,牧師と執事という二種の役職のみが与えられています。彼らは霊的面と管理的面とにおいて教会を導く指導者です。牧師はその職能の上から長老,または監督とも呼ばれています。執事とは,「しもべ」ということを意味しており,それゆえ執事は教会に奉仕する者として,牧師と共に,様々な種類の奉仕に当たります。

 

7.象徴的礼典としての「バプテスマ」と「主の晩餐」

 バプテストは主イエス・キリストによって定められた地域教会の礼典は,二つだけで,それはバプテスマと主の晩餐であると信じます。

 これらの礼典は,キリストの福音による可視的徴(しるし)であり,教会によって執り行われる外的儀式であります。

 バプテスマは水に全身を沈めることによって,信者がキリストの死と埋葬と復活に合わせられることを生き生きと表現し,確認させます。主の晩餐は,パンを食し,ぶどう液を飲むことによって,信者がキリストの贖いの死にあずかり,霊的生命をいただいたことを象徴するものです。

それはキリストの死を宣べ伝え,キリストの死を記念し,主の再臨まで地域教会によって続けられるべき儀式であります。

 それは地域教会の全会衆の集まりにおいて執り行われるのであって,個人的に行うものではありません。

 これらの礼典は,象徴ですから,救いの恵みを与え,聖めをもたらす手段ではないのです。

 

8.教会と国家の分離および信教の自由

 バプテストは地域教会の自治独立を信じるので,他の教会を支配したり,他の教会から支配される関係をもたないのです。また新約聖書の教えから,地域教会は国家的政治権力から自由であって,干渉されてはならないと考えます。つまり国家の権能の行使は,世俗的な事柄についてであって,国家は宗教的事柄については干渉してはならないということです。

 バプテストは「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして,神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:21)「人に従うより,神に従うべきです。」(使徒5:29)という御言葉に従って,信教の自由の戦士として戦ってきました。

 この信教の自由は,日本国憲法によっても保障されています。

 

9.世界宣教の使命と熱心

 バプテストは主の宣教代命令(マタイ28:19-21)に従って,全世界のあらゆる国の人々を弟子とするために立ち上がりました。

 近代外国伝道の父と呼ばれるウィリアム・ケアリー(1761-1834)は,英国バプテストの宣教師でした。以来バプテストは,世界宣教を熱心に推進し,主イエス・キリストに対する愛を力強く表してきたのです。

 私たち保守バプテストの教会も,米国保守バプテスト教会から遣わされた宣教団の宣教師による働きの実です。

 私たちの教会からも,海外に向かう宣教師が続々と起こされるように,熱心に祈り,また捧げていきたいものです。

 

10.近代自由主義からの分離

 バプテストは本来,それが教義的なものであれ,あるいは実践的なものであれ,聖書の教えに厳格に従う人々であります。従って聖書に反する教義をかかげ,聖書の教えに基づかない実践であるなら,それらのものから分離することが,主の命令に服従することであると信じます。

 聖書の霊感の否定,あるいはキリストの神性,処女降誕,復活,再臨などを否定する近代自由主義の立場を拒否し,聖書的心理を積極的に擁護するのは,私たち保守バプテストの特質であります。

1 聖書
3 人間の堕落
4 イエス・キリスト
5 救い
6 聖化と栄化
7 教会
8 礼典
9 教会と国家の分離
10 終末
付録 バプテスト教会とは
2 神
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